あゆ釣り

河原の淡水漁業
 千代川は、全長の長い川ではありませんが、その支流は84もあるといわれています。千代川は昔から魚が豊富で、アユ、サケ、マス、ウグイ、ヤマメ、イワナ、ウナギ、コイ、アユカケなど、いろいろな淡水漁業が行われてきました。中でも、鮎漁は最も有名で河原町は「あゆの町」と言われています。

 千代川では、大正8年頃から、早くもアユやサケ、マスの人工ふ化と稚魚の放流を始めており、大阪市場へも出荷され「河原のアユ」として、高い評価を得ていました。大正12年(1923年)千代川水産鮎出荷組合(河原町河原)が組織され、鮎の出荷は組合を通して行われるようになりました。現在は、昭和24年(1949年)に設立された。千代川漁業協同組合(河原町長瀬)が、その事業を受け継ぎ、鮎の出荷あっせんを実施しています。
 また、同漁協は魚資源の確保のため、アユやコイ、ヤマメ、アマゴ、サケ、ウナギ、などの稚魚放流をはじめ、遊漁料の徴収や密漁の監視、水系における漁業権などの管理を行っています。
りとも呼ばれています。
河原町内の鮎の釣り場()と放流区域()、禁漁区域()

鮎の生態
image 鮎は川で生まれ、幼時は海で育ち、後に川に帰る遡河魚(ソカギョ)です。卵(直径1mm)は、10〜12月頃、川の中、下流の砂や小石の川底に産みつけられ、2〜3週間でふ化します。生まれた魚(約3mm)は、河川に流されて、海に下り、プランクトンを食べて越冬します。3〜4月頃6〜7cmに成長した子魚は、群れをなして川をさかのぼります。初めは昆虫や小さい甲殻類などを食べますが、5〜6月頃、口の周囲に歯が生じると、植物食に変わり、川底の石に着生するケイ藻、らん藻などを歯でかきとって食べるようになります。全長10cmくらいに育ったこの時期の鮎を「若鮎」と呼び、この頃から石あかの多い場所を点有しようとして、激しくなわばり争いをするようになります。初秋の頃全長23cm、体重100g以上に達した鮎は、徐々に中・下流へと下降し、川底に産卵すると大部分がその一生を終わります。

河原の鮎漁法
○友釣り
なわばり争いをする鮎の性質を利用した釣り方で、あらかじめ取られて生かしておいた鮎(友鮎、おとり鮎)に鼻環をつけ、釣り針とともに鮎の住む場所に投入します。おとり鮎を追い払おうと襲いかかる鮎を釣り針に引っ掛けて釣り上げる漁法です。
このあたりでは、親かけ釣りと呼ばれています。

○どぶ釣り
6月上旬から7月上旬にかけての遡上期の鮎は、水中昆虫等を追う食性があります。その性質を利用し、文字どうおり、流れの穏やかなトロ場や淵で、繊細な毛針による疑似餌で鮎を釣る漁法が古くから広まりました。この当たりでは、中底釣りとも呼ばれています。
○コロガシ釣り
かけ釣りの一種で、多数の釣針を錘の先につけ、水中と川底に沿ってころがし、鮎を釣針に引っ掛けて、釣り上げる漁法です。このあたりでは、ゾロ釣りといい、より積極的な釣りの一種です。
○投網漁
その名のとおり、網を中空に向かって投げ、輪のように広げて、鮎を捕獲する漁法です。主に、夜間の漁に持ちいられ、漁期による鮎の魚体の大きさで、使用する投網の網の目の大きさが変わります。
○鮎の毛バリ
わが国の鮎専用毛バリは、その精巧さにおいて、世界の最高水準を誇るものです。この毛バリを使った代表的な釣り法である、ドブ釣りは、徳川中期に金沢で始まったといわれています。また、毛バリ作りは、京都の公卿の間で始まり、やがて、金沢に伝えられると、藩によって、下級藩士の手内職として、保護されました。明治維新以降は、土佐や播州にも広まり、大正末期から昭和初期の最盛期には、2千数百種類の毛バリが製作されたと言われます。
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